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シチー考(+反省文)

 

 

こんばんはー!みんなー!ウマ娘やってるかなー!?ばあちゃんはやってるよお。

この間、ゴールドシチーというウマ娘が実装されました。ばあちゃんは前からゴールドシチーが欲しかったので、貯めていた石を解放して60連目で無事引けました。しかも2枚抜きしてラッキーハッピー。ばあちゃんはシチーに愛されている……?

さて、何故ばあちゃんがシチーを引きたかったかというと、見た目が好みだったからです。キレイな女の子にばあちゃんはすこぶる弱い。これは今回のキーポイントです。タイトルの通り、このブログは反省文という一面も持っている。何故これが反省文になるのかは続きを読めば分かるというスンポーよ。よろしくな!

あ、このブログはシチーの育成シナリオのネタバレ全開なので(どこに感動したかを書くから仕方ないな!?)、読むときは気をつけてくれよな!ニャーン!

 

 

本題に移ろう。シチーである。私はシチーの育成シナリオを読んで号泣した。刺さった。昔読んだ本に串刺し刑に処されている人の写真が載っていたのだけど、そのくらい刺さった。不謹慎な例を使うな。

 

シチーの物語は、救済の物語だった。

 

ゴールドシチーというウマ娘は「100年に1人の美少女ギャル」の人気モデルという設定である。ちなみにオタクに優しいギャルではありません。オタクの存在にそもそも気付かないタイプのギャルです。は?好き。さて、そんなシチーの紹介文を公式HPから引用しましょう。

「100年に1人クラスの美少女ギャル。ずっとモデルをしており、望まれるままの自分を演じていた。がある日、走りこそ自分の本懐と目覚める。それ以来、容姿ではなく中身で評価される日を目指して、ひた走るように。裏表なく接するトーセンジョーダンと仲良し。(ウマ娘公式HPから引用)」

この文面で既に泣けるんじゃが???サ○ゲ君……いい加減にしてくれ……。

シチーはモデルである。しかも100年に1人レベルの美少女である。見た目ばかり見られるシチーにとって、「キレイ」という言葉は最早呪いの言葉となっていた。「容姿ばかりで誰も中身を見てくれない」という深い傷付きが彼女にはあったに違いない。おそらくその想いにより、彼女は実力=中身で勝負する世界に飛び込んだのだ。シチーは「キレイ」という呪いの言葉から抜け出したくて、「走る自分=本当の自分」を周囲に評価して欲しくて、その「本当の自分」を取り戻すためにトレセンに来たワケである。

しかしそうは上手くいかない。頑張っても頑張っても「(容姿が)キレイ」という呪いはついてまわる。走って1位を何度とっても容姿への言及は尽きない。シチーが「キレイ」から逃走しようと走れば走るほど、シチーは「キレイ」にがんじがらめにされていく。足が重くなっていく。「走ったって……なんの意味もねーってこと」に気付いてしまう。「結局ルックスの評価は消えない」という事実、「走れば走るほど見た目しか見ないヤツが出てくる」という事実にシチーの足は完全に止まってしまう。

「なんで誰も見てくれないんだろ、アタシの実力だけを……」

屋上で虚無感に呑まれてこう呟く10代の少女を見て泣かない人間がいるか!?俺は号泣した。サ○ゲは俺を泣かすな。謝罪しろ。

その上で、シチーはレースに出たのも(容姿を見る)周囲への反発に過ぎなかったことに思い当たってしまう。シチーは屋上で私に言う。「モデルになって、望まれるまま振る舞って。走りを選んで、望まれないように振る舞って。そのふたつは、別物だと思ってた。」「けど、ホントはどっちも一緒で──誰かの声がなくちゃ、なんにも選べてなかったんだ。」「空っぽなお人形さん。それがホントの、"ゴールドシチー"だったってわけ。」「──ホントのアタシなんか、いなかった。」

走っていても自分は空っぽの「お人形」なのだという想いに囚われ、シチーは本当の空っぽになる。ここでばあちゃん号泣(n回目)。そんなことない、と気軽にも言えない。でもそんなシチーをばあちゃん(トレーナー)が支えないといけない。ばあちゃん(三次元)は号泣しても、ばあちゃん(トレーナー)は泣くわけにはいかないんじゃい!

走り込みをする中で、シチーは本当の自分がいたことに気付く。「走りたい」という消えない欲求を持つ自分である。『さらざんまい』というアニメがありますが、『さらざんまい』には「手放すな、欲望は君の命だ。」というキャッチフレーズがある。僕は心からこれが真実だと思っている(この言葉をスマホの待ち受けにしているくらいである)。欲求や欲望を手放さない限り、人は絶対に消えない。それを手放したとき、シチーは本当に空っぽになってしまう。シチーは走りたいから走る。周囲の評価とは関係なく走る。そう心に決める。ありがとうシチー……。欲望を手放すことなく走ってくれてありがとうシ゛チ゛ィ゛……。

さて、だからといって呪いが完全に解けたわけではない。シチーにとって一番重要なのは「キレイ」という呪いとどう対峙するのかということである。

ここで登場、知ってる人は知っている。ユキノビジンというウマ娘がいます。彼女とシチーは仲がよいので、ユキノもシチーのシナリオに登場する。育成馬イベント『夕日に透ける金色の』に登場するユキノはシチーのことを「キレイ」だと言う。「地雷を踏みに行くなあ!」と思った諸氏、大丈夫です。落ち着いて戦場に戻ってきて下さい。ここに究極の救済があります。

ユキノはこう言う。「シチーさんは見た目もすンごいキレイです。ホントにホントに、キレイなンです。でもそれだけじゃないっっ!」「キレイって全部入ってるンですよ!強いも、すげぇも、全部ですッ!」

「キレイには全部が入っている」。シチーはこの言葉に救われるんですよ。しかしこれはなんて綺麗で力強い救済の言葉なんだろう。この言葉を作ったシナリオライターさんにノーベル平和賞あげよう。この言葉を通してシチーは、「キレイ」には外見評価だけでなく内面評価の意味合いもあることに気付き、「キレイ」という呪いの言葉は寿ぎの言葉に反転する。ドラスティックゥ……ドラスティックだよォ!?そしてシチーは最後に「キレイ」という言葉を笑顔で受けいれるというあの、アレ、サイコー……。

 

これが本当の救済の物語です。分かるか諸君!?

 

このシナリオ、見た目だけを褒めそやされて「自分」が透明になっていく感覚みたいなものを見事に表現していたし、その呪いに耽溺するのではなく走ることでその呪いから脱却しようというシチーの強さ、その中で「走りたい自分」という自己のコアを見つけ出す美しさ、そして何よりも「キレイ」という言葉が呪いから寿ぎに反転する展開が本当にものすごくいい。本当に秀逸だと思う。

単純な話ならば、シチーは実力が評価され「キレイ」という呪いは消えました、めでたしめでたし。で終わると思うのだけど、このシナリオはその先を走っている。この終わり方では救われない魂を救おうという気概を感じる。上記のような単純なエンディングではシチーは本当の意味で救われない。

外見と内面どちらかばかり褒められると、人は褒められない方の評価を求め始め、褒められる方の自分を枷に感じるようになる。褒められない片方だけで評価を得たとしても、自分を縛る枷から完全に自由になったことにはならない。もう片方の側面は枷のままで取り残されることになるからだ。だからこそ「キレイ」という評価を消すだけでは本当の救済にならない。そのままでは、シチーは自分を本当の意味で好きになることはない。「アタシ」になることが出来ない。そこに本当の救済はない。

「キレイ」という呪いの言葉を寿ぎに反転する時、物語は真実の救済になる。

「キレイには全部入っている」という言葉は、勿論「内面の美しさを評価している言葉だ」ということを表しているのだが、それ以外にも「外見の美しさも表している言葉だ」という意味も込められている。何故かって、「キレイには全部入っている」のだから!シチーは最後「キレイには全部入っている」という言葉を思い出し、周囲からの「キレイだ」という言葉を肯定し、トレーナーにその言葉を求めた。それはつまり、シチーが「自分は内面も外見もキレイだ」ということを受けいれたということに等しい。シチーが本当の意味で「アタシ」を取り戻した瞬間、私は声を上げて泣いた。魂が救われる瞬間は本当にキレイだ。シチーは本当に本当にキレイだった。キレイだよぉ……シチー……シチーは本当にキレイだよォ……。

シチーの物語は、呪いを完全に打破する物語だった。これに感動しない人間はおりゃんじゃろ……。号泣後の放心状態になったばあちゃん、言える言葉は「ラヴ……」、ただそれだけ……。

 

ここまで読んだ人なら、最初に書いた「見た目が好きだから引いた」という理由を何故反省しないといけないのか、というのが分かって貰えたと思います。この理由、シチーが一番傷付くやつなんですよ。もしこの反省まで視野に入れた上でシチーのシナリオ書いてたとしたら、サ○ゲ頭よすぎて怖いんですけお……。やめて……。許して……。というかキャラの見た目の話がメインになりがちなオタク・シーンに、このシナリオぶち込んでくるのは凄まじすぎて泣く。これ含めてシチーのシナリオの持つパワーは凄いと思ったんですよね……。

ばあちゃんの人となりを知らない人間が見た目について言及してくるのが、ばあちゃん的に本当にNGというか地雷なんだけど、なんか、それをシチーにしてしまっていたという事実に本当に凹んだんですよ。シチーの気持ちがほんの少しだけ(ばあちゃんは100年に1度の美少女ではないため、本当にほんの少しだけ)分かるのに、シチーを同じ気持ちにさせてしまっていたという事実に本当……自己批判しかない……。総括しろ…総括しろォ……。

 

総括します。

 

「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilities―まさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。」と書いたのは村上春樹である。

私はこの文章が正しいと思って生きている。何故か。想像の世界はありえた現実だからだ。想像の世界は可能性のひとつだからだ。そして、想像力の中であったとしても、私は私であるからだ。想像力の中で行使した暴力は、この私による暴力だからだ。だからこそ、想像力の中から責任は始まる。

僕は想像の世界で美女を贔屓しまくっている。二次元キャラクターも或る意味想像の世界の住人で、僕は想像の世界ではキャラクターを内面ではなく見た目で判断する。見た目がいいから好き、見た目がいいからガチャを引く、見た目がいいから育成する。まずもって見た目から入り、内面について知ろうとするのはその後である。知ろうとしないことすらある。「見た目だけでいいや。空っぽのお人形でいいや。」という暴力的な、あまりにも暴力的な意識。自分がされて一番嫌なことを想像の世界では簡単にしてしまう。このばあちゃんの中に宿るエゴイスティックで暴力的な構造が君たちに分かるか!?想像の世界だからいいってわけじゃねえんだよ。想像力の中からばあちゃんの責任は始まってるんだよバカバカなすび!うわーーーーーーん!!!!!

シチーの育成を通して反省した。本当に心から反省した。これは善くないと思った。少なくとも私は相手が例え二次元キャラクターであったとしても、内面をきちんと見ないといけないと思った。容姿への言及に辟易とし、傷付いてきた人生だったのだ。「褒め言葉」という隠れ蓑、大義名分の裏に潜む暴力性を多少は知っている筈なのに、それをしている自分の醜さと浅ましさに眩暈がしますよ本当に。私は暴力の再生産だけはしないようにしなければならない。総括でした。この総括が面白かったら、チャンネル登録と高評価よろしくおねがいします。

そういえば、ウマ娘は新ガチャが実装される度に、該当キャラクターストーリーを4話まで無料解放しているよね……。そうか、そういうことだったのかサ○ゲさん……?きちんと内面を知って、キャラのことをきちんと「キレイ」だと思ってからガチャを引きましょうねということだったのか……?

サ、サ○ゲさん……?

そしてこれに気付いた僕は名探偵ばあちゃん……?

 

名探偵ばあちゃん、この資本主義社会においてそれは違うんじゃないか?

 

 

 

 

 

資本主義が憎いです。