クッキーは焼かない

クッキーは配るもの

私の掌は形而上の血に塗れている

 

 

その薄暗い空間には、若者達の写真が並んでいた。古びた鉢巻きが、くすんだ手紙が、沢山の遺品が並んでいた。
隣にいた友人がそっと囁いた。「×××ちゃんのおばあちゃんは、この人たちを見送っていたんだね」

それに対して、私はそうだね、とだけ答えた。

 

 

私の祖母はもう90歳を超えた。去年の冬に彼女が入っている老人ホームへと会いに行った時、彼女の認知症がかなり進行しているのが分かった。おそらく彼女は私が誰なのかもう分かっていない。
私の祖父と祖母は鹿児島の知覧で生まれ育った。戦時中、祖父は南方の戦地に送られ、祖母は知覧で特攻隊を見送る仕事をしていたという。子供の頃、夏になる度に私は祖母から、或いは祖父の話を聞いた母から戦争の話を聞いていた(祖父は私が物心つくまえに亡くなっている)。南方で自らが生きるために、遭遇した米兵を殺した祖父の話。祖父が戦地での話を一度しかしなかったという母の話。ALSで亡くなった祖父が死の数日前、牧師の「あなたの罪は赦されているんですよ」という言葉に涙を流したという話のあとで、「ずっと辛かったんやと思うわ。おじいちゃんは戦地で人を殺しとおけん」と言った母の顔。逃げ遅れ、爆撃機から逃げ惑い、道端の溝に落ちたから助かったという祖母の話。「やったら、そん時おばあちゃんが死んぢょったら、私は生まれちょらんかったん?」と問うた私に、「そうよ。おばあちゃんがあん時死んどったら、まりちゃんは生まれとらんかったんよ」と答えた祖母の真剣な表情を、幼い私は奇妙な心持ちで見ていた。私の命は、偶然と幸運の産物に過ぎないのだと思った。

姉が大学生の時、何かのレポートを書くために祖母の戦争体験についてのインタビューをテープに録音したという出来事があった。そこで祖母は、特攻隊を見送るときに心の中では「まだ若いのに可哀想だ」と思いつつ、それを言うことは叶わず、万歳をしながら見送り続けたという話をしていた。口に出せばどうなるか分からなかった。だから彼女は自分の想いを口には出せなかった。代わりに口にしたのは、「万歳」という言葉だった。
自分が生き延びるために人を殺した祖父と、自分が生き延びるために本心を隠し続けた祖母。その延長線にある世界で、私は生きている。

 

去年の11月、私は知覧特攻平和会館を訪れた。鹿児島に住んでいる友人の結婚式があった次の日、私は友人達と知覧にいた。11月の秋晴れの下、目の前には緑にあふれた牧歌的な風景が広がっていた。たった77年前、この地で10代の祖母は私の想像力の届かない場所に立って生きていた。

その薄暗い空間には、若者達の写真が並んでいた。古びた鉢巻きが、くすんだ手紙が、沢山の遺品が並んでいた。
隣にいた友人がそっと囁いた。「×××ちゃんのおばあちゃんは、この人たちを見送っていたんだね」

それに対して、私はそうだね、とだけ答えた。

それしか言うことが出来なかった。

 

想像力は届かない。それはいつも想像力が届かない場所にいた。ただ、本来傷付くべきではなかった人々が傷付き、本来死ぬべきでなかった人々が死に、そしてそれを哀れむ心すら掻き消されていったという事実だけが、私をまっすぐ見つめながら突っ立っている。常に、私の目の前に。
しかしそれでも、例えばバスに乗り遠くに見える海をぼんやりと見るとき、私は想像する。私が祖父或いは祖母の立場にあったなら、私があの時代に生まれていたなら、間違っている事象をはっきりと拒絶できただろうかと想像する。言論の自由が制限されている最中でも、国家権力が市民の権利を貶めている最中でも、それでも拒絶の意思を口に出すことが出来ただろうかと想像する。
「出来る」と言うことは簡単だろう。可能性の中では、我々はいくらでも正しくあることが出来る。そして、祖父或いは祖母を非難することも。だけれども、私はどうしても出来ると言えなかった。出来ないと言うことの方が簡単だった。私は所詮臆病で平凡な普通の人間であり、諸々の権利が剥奪されている中でそれらが出来るとはどうしても思えなかった。その勇気が発揮できるとはとても断言出来なかった。10年近く同じ自問自答を繰り返してきたが、答えは今でも変わっていない。
それでも私は想像する。想像するしかなかった。かつて生じた出来事に、少しでも自分を重ね合わせようとすることしか私には出来なかった。私は想像する。祖父の息づかいを、心臓の鼓動を、米兵の目を、赤い血潮に塗れた銃剣を、祖母の怯えを、殺された感情を、飛行機のエンジン音を、響く「万歳」の声を。形而上の血に塗れた私の掌を。
私が実際に何かをなしたわけではない。しかし私と祖父と祖母は同じだった。私は想像力の世界で何度も何度も、執拗なほど何度も、祖父と祖母と同じ罪と責任を共有し、それらを共に背負う。記憶にない祖父の姿と、老人ホームに住まう祖母の小さな体躯。その後ろに私は並ぶ。可能性の罪と責任でこの身を焼き、内省し、思考を止めず、出来事それ自体ではなく人間に想いを馳せる。
それが、幸運と偶然の結果として今生きている私がせめて出来ることだった。

 

 

「これだけはどうしても皆さんに覚えておいて欲しい。権利というものは、保証されて当たり前じゃありません。我々の権利や自由は簡単になくなっちゃうんです。」
教壇に立つ私は教師然として喋っていた。臆病で平凡な普通の小市民が、教壇に立っていた。広い教室の前方に座っている学生たちは、喋る私を黙って見つめていた。
「でも中には「先生、そんな簡単になくならないよ」って思う人もいるかもしれませんね。そういう人は、例えば治安維持法を思い出してください。あの法律によって思想弾圧が実際になされていたわけです。」
教室の後方には、私を見つめる過去がいた。私の代わりに権利を勝ち取るため戦った人々がいた。押し黙る祖母がいた。戦地に立つ祖父がいた。死んでいった沢山の人間がいた。名前も知らない人々の悲哀と死体の上で、おびただしい量の血の海の上で、私たちは諸々の権利と自由の美酒に酔っている。
「以上から分かるように、時に権利というのは本当に弱いんです。なくなる時はなくなってしまうものです。だからね、皆さん、私たちが今持っている権利は先人の努力と沢山の犠牲によって勝ち取られた尊いものであり、そして保証されているのが当たり前ではないということだけは絶対に覚えておいてください。」
はいはい、じゃあ授業に戻りましょうか、と言いながら私は思う。目の前の若者達はいつか理解してくれるだろうか。過去や歴史という言葉の影には、沢山の人間たちが潜んでいることに。巨大な出来事の影に隠れていたとしても、そこには常に我々と変わらない人間たちが大量にいたということに。のっぺらぼうでも名無しでもなく、感情と血と肉を持つ人間たちがいたことに。そして私たちは彼ら/彼女らの人生の延長線上に、今生きているということに。今は分からなくてもよかった。この話を覚えていてくれて、いつか分かってくれたら、こんなに嬉しいことはないと思った。

 

昨日憲法を守ろうと人々がビラを配っていた駅前に、今日は憲法を改正しようと演説を流す街宣車がいる。新自由主義に抗おうとする候補者の隣に、新自由主義的政策を推進しようとする候補者がいる。同性愛は治療可能性のある精神疾患だと書かれた冊子が国会議員の会合で配られ、それに抗議するデモが開かれる。
人々が抱くそれぞれの理念や思想、憤りや苦悩を織り込み、現在進行形で歴史は作られていく。そしていつか私たちも歴史の影に呑み込まれ、そこにあった筈の沢山の感情は燦然と輝く硬質な歴史的出来事の下に沈んでいく。踏みにじられてきた権利、踏みにじられている権利、踏みにじられんとする権利。その裏には常に人間がいる。人間は数になる。数にもならなかった人間は消えていく。そこにいたのは確かに人間であったという単純なことが次第に忘れられていく。
それはひどく悲しいことだと、いつも思う。

 

 

7月初旬にもかかわらず、最高気温35度を記録する街の片隅。無機質なビル街の狭間、太陽光で熱された道をうつむきながら私は歩く。私の掌は形而上の血に塗れている。可能性の罪と責任に、この身は常に焼かれている。形而上の血が指先からしたたり落ちるアスファルトの上、私の形に黒々と広がる影には、常に祖父と祖母がいる。